徒然。

備忘録

CLOSE感想

誰かと誰かの関係性に他者が名前をつけようとすることは、残酷で傲慢で横暴で、それにより彼等の関係性を壊すことになることを、私達は理解しないといけない。差別が人を殺すことを、理解しないといけない。

悲しい選択をしてしまった人を責めてはいけない。どんな選択であれ、その人の選択は尊重されるべきである。たとえそれが自分にとってつらい選択でも。その人にとっては、その時点での最善で最良だったはずなのだ。

 

 

レオとレミのことをからかった彼女たちに差別の自覚も悪意もなかっただろうことがあまりにも悲しい。なければ良いなんてことはもちろんない。けれど、彼女たちの価値観がまだ大半であり、そうじゃない二人が「おかしい」から、それを社会から学んでしまっているから、差別だと理解のないままからかっている。社会がまだ、異性愛規範で動いていることの証左だ。

彼等のセクシュアリティは作中でもインタビューでも明言されていないし、そもそもセクシュアリティについてを明言しなければならない環境はおかしいのだ。それを彼女たちが尋ねることを許しているのは、やはり社会がおかしい。

二人はきっとそんなことは考えてすらいなかった年頃だろう。レオは、冷やかされるのが嫌で距離を取っただけのつもりだったはずだ。以前ほどではなくとも、レミといることはやめなかったのだから。

レオはただ、周囲から「カップル」と言われない距離感にしたかっただけで、レミにはそれが世界の終わりのように感じたのだろう。親友以上に兄弟のような二人だった。半身を亡くしたような気持ちだっただろう。

彼等が学校で殴り合うシーン、同じベッドで眠るのはおかしいのだとレオが離れて、レミが追いかけて、もみくちゃになって喧嘩したシーンと重なる。きっとまだうまく感情を言葉にできない二人の、大切なコミュニケーションだったはずだ。あの時にちゃんと、ぶつかり合って、それでも一緒にいることを選べていれば、二人でずっといられたかもしれない。誰になにを言われても良いから今まで通り過ごすか、冷やかされない距離で生きるか、だけではない、解決策があったかもしれない。

けれど、彼等は引き剥がされてしまう。レミはレオが離れていくのを止められない。伸ばした手は届かない。掴み合いの喧嘩でも、掴み合っていれば世界は終わらなかった。レミが置いていかれたと、深く傷ついたことを、レオはあの時知るべきだったのだろう。そうしたら、距離の取り方を弛めるなり、話し合うなり、周りに慣れさせるか、差別的だと糾弾するか、なにか方法があったはずだ。

けれども、教師が掴み合いの喧嘩をしている二人を止めるのは当たり前で、誰も悪くない。だからこそやるせない。もう二人だけの世界ではなかった。

 

レミが「もういない」ことを心のどこかでわかっていて「病院にいるの?」と聞くレオが、自転車で、きっと車の中で座っているだけなんてできなかったのだろう、レミと走った道を必死にレミの家に向かうレオが、鍵の壊された扉でそれを悟ることが、あの時鍵をかけてしまったレミを思わせて悲しい。

一度閉ざされてしまった扉を開けさせることは困難で、手を伸ばすことすらできない。閉じ籠った人を助けることは難しくなってしまう。レミはその後ちゃんと出てきて、お腹が痛いと泣いた。きっと半身が離れた痛みだった。あの時にレオと話し合えていれば、と思わずにはいられない。言葉を二人で探して行ければ、そのうちにどちらもが落ち着ける距離感になれていたかもしれない。あるいは、周りからの言葉を気にしなかったかも。

 

レミがいなくなっても、翌日、いつも通り学校に行き遊びホッケーしていたレオが痛ましかった。ホッケーではわざと壁に当たっているように見えた。遊んでいても、楽しそうではなかった。日常のなかに、ぽっかりとレミがいない穴だけがあるのが切ない。スケートリンクの外を見ても、学校のベンチにも、花畑にも秘密基地にも、家にも、どこにもレミはいない。

葬儀に行くのを拒むのは、本当にレミがいなくなってしまったことを、見たくないからだろう。亡骸を見なければ、どこかで生きていると思えるから。現実を見たくないから。それでも、レミがどこにもいない事実は消せなくて、その現実で、レオは生きていく。

 

学校でカウンセリングがあることは、クラスメイトのケアという意味では良いことだろうが、レオにとっては苦痛だっただろう。

ただのクラスメイトが、レミを知った風に語ることは。自分さえもわかっていたかどうかわからないのに。レミは音楽が上手だった、と言うクラスメイトの声に席を立つのは、レミがずっとオーボエの練習をして、吹けるようになるまでを知っていたからだろう。クラスメイトにとってのレミはそうだった、というだけの話なのだが、レオが知るレミだけが、レオにとっては真実で、全てだったはずだ。

 

レオが半年以上経って、骨を折って、漸く大粒の涙を流せたことに安心した。レミの部屋に入ったときも、多分あの雨の帰り道も泣いてはいたけど、でも、まだ深い悲しみの中にいた。春になってもそれは変わらないだろうけど、でも、レミの母親になにがあったかを、抱えていた罪悪感を、見せられた。

レオは、自分のせいだという罪悪感と、レミがもういない喪失感と、会いたくても会えない寂しさを、ずっと一人で抱えてきて、お兄ちゃんに会いたいと吐露したり、レミの母親に自分のせいだと吐露したり、漸く抱えこんでいたものを見せられるようになったのが、本当に良かった。

悲しいけれど、どんなに悲しくても、どんなにつらくても、どんなに寂しくても、生活は続いていってしまう。一人で抱え込んだまま生きるのはしんどい。吐き出したからといって、楽になれるものでもないし、傷が消えることもないのだけれど、でも、一人で苦しんでいるのを見るのは、きっと周りもしんどい。

レオが話せるようになるのを、レミの母親はずっと待ってくれてた。何かあったと決めつけず、責めず、無理に聞き出そうとせず、ほしいものはなんでも持っていって良いし、また遊びに来てと言いながら。

自分のせいだと吐露したレオを、反射的に責めたりせずに、ただ息子の死を悲しんで、一言車から降りて、と言ったのが、顔を見たくないと思ったからなのか、最初から抱き締めるつもりだったかはわからない。けれど、抱き締めるなら降りなくてもできるから、恐らく前者なのだろう。それでも、森の中に入っていったレオを探して抱き締めたのが、大人としてどこまでも正しい行動だと思った。

レオのせいじゃないとも、レオのせいだとも、赦すとも赦さないとも言わない。起きたことは事実で、レオ自身がそう思っていることも事実だけれど、レミが何も残さなかった以上(とはいえレミが描いたであろう絵がたくさんシワだらけで出てきていたのだから、レオとなにかあったことは明白だろうが)、レミの本心もわからないのだから。

今は赦せなくとも、いつか赦せるかもしれないし、赦そうが赦すまいが事実は変わらないし、息子同然に接していたレオを恨むことが難しかったかもしれない。人間の感情はひとつではないから、深い悲しみと同時に、強い怒りを抱けたりもする。作中でも、「悲しみと怒りは似ている」という旨の台詞があった。

感情を正確に言葉にすることは難しい。ひとつではないのに、ひとつの言葉にした瞬間に、色々あったはずの感情が消えてしまったりする。何かに名前を付けることは、その名前に当てはまらないものを排除することだと思う。

カウンセリングシーンで「言葉にしなくちゃいけない」という台詞があったが、言葉にすることで、どろどろに混ざり合った感情を、分類することで、形作って整理していくんだろう。

そうやって、生きていくしかないのだと思うと、少し寂しくて、いつまでも形にしないまま、抱えていたかったような気もする。

けれども、どろどろした感情のままでは、きっと生きていけない。いつかそれに溺れてしまうから。

レオはこの先も、ずっとレミを喪った悲しみを抱いて生きていく。溶け出した悲しみや罪悪感や喪失感に溺れそうになりながら、きっとそれでも生きていく。

振り返ってももう花畑にはレミはいないけれど。前を、隣を走ることもないけれど。それでも、永遠に子どものままのレミを胸に抱きながら。一人で。

 

 

レオの初めての海外旅行は、レミと話したメキシコだと良い。